【校長より】都工の歴史(その27)~図書館のあゆみ~
『都工の歴史』のこれまでの連載の中で、何度か本校の図書館について紹介してきました。今回は本校の図書館の歩みについて改めて紹介したいと思います。少し長くなりますが、お付き合いください。
本校の図書室は開校と同時に設置され、大正2年には2,389冊の蔵書数をもっていました。同年創立6周年を記念して、この図書室を一般に開放して閲覧ができるようにされ、質問箱を設置して、工業関係者のために便宜を図ったとのことです。
その後、大正8年にこの図書室にある各科の専門書を機械科・建築科・分析科・普通科に分配して図書分室を置き、教授の参考に一層身近に役立て、生徒および一般の質問閲覧の際にも、専門委員の指導を受けるのを便利にしました。この図書分室の制度は終戦まで続けられ、各科に図書係の生徒、教員が置かれ、購入から管理までの作業が、独立に行われました。これから分室の図書は、寄贈等によって増大していきましたが、戦時中は、直接生徒の閲覧に供する図書を残して、中央図書室へ集中管理されたため、幸いにも戦災をまぬがれ、その大半は無事に残されました。
昭和24年3月、大阪市学校図書館のモデル校として指定され、昭和25年5月、大阪市教育長より、優秀図書館として文部省へ報告されました。当時の蔵書数は約13,000冊でした。昭和25年のPTAの事業によって図書室が大改造され、一部開架式の近代的な図書館が生まれ、3,600冊の生徒用図書が開架されました。一部の図書を整理し、このときの蔵書数は、邦書8,370、洋書2,684、未整理図書210、計11,544冊となりました。昭和26年には13,300冊、そして、昭和30年には開架図書5,000冊と増加し、昭和35年には18,225冊になり、同年の卒業生の記念品として岩波文庫・角川文庫、原子力、自動制御に関する図書が新たにこれに加えられました。昭和38年頃より整理に取りかかり、昭和41年には約4,700冊を廃棄並びに大阪市中央図書館に移管しました。
昭和37年ごろより図書館新設の計画の検討が進められ、実現のための青写真も描かれるところまできていましたが、体育館の建設という大事業のため、見送りとなっていました。当時の校長は、この計画の早期実現が、激しい社会変化に適応しながら、主体的に技術を獲得し開発する人間をつくるためには、ぜひ必要であると認識されており、60周年の記念事業として、図書館の新設にふみ切られました。昭和42年6月の1日あたりの平均閲覧者数は226名、平均貸し出し数は74冊でした。
どうですか、あらためて本校の図書館の歴史の深さがわかったでしょうか。現在は校舎も建て替わり、当時の図書館ではありませんが、今でも伝統は受け継がれ、活発に図書館活動を行っています。