【校長より】都工の歴史(その3)~現在地へ新築移転~
大正時代に入り、経済の飛躍的発展をとげる大阪市では、交通の中核である大阪駅の拡張に伴って駅の北側に隣接する地域に大貨物ターミナルを建設する計画が起き、その場所にある数校の移転問題が生じてきました。府立北野中学校(現北野高校)は淀川を越えて北に、私立梅花女学校(現梅花学園)は新興のベッドタウンの豊中市に、そして我が大阪市立工業学校は大阪市の東北の地に発展した都島区に移転することになりました。
大正14(1925)年、地下1階、地上3階建ての鉄筋コンクリート造りの本館の新校舎が完成しました。白亜の見上げるような現代建築の威容は、工業学校が象徴する都市高層化の幕開けとなりました。なお、この新校舎は現在の校舎に建て替わるまでの60数年間にわたり都工生の学び舎となりました。
校舎の移転に伴い、旧校舎(大阪駅前)から約3km東の新校舎まで机、椅子を運ぶ生徒たち数百人の列が続き、市民をえらくびっくりさせたそうです。
机と椅子をもって3km歩いて引っ越しするなど今では到底考えられませんが、当時としては当たり前のことだったのでしょう。生徒の皆さんも文明の利器に頼らず、たまには歩いて物を運ぶなど先人たちの気持ちを味わってみるのも悪くないかもしれませんね。
(その4に続く)
完成直前の新校舎