【校長より】都工の歴史(その8)~終戦焦土から復興へ~
昭和20(1945)年6月の大阪大空襲で、1094発の焼夷弾により本館の一部、機械科の工場を除く全ての校舎を失うことになった、都工の地獄から2か月後、遂に終戦を迎えました。「なぜ、もうちょっと早くやめられなかったのか」、「学校も家も焼かれずにすんだのに」という思いをもち悔し涙を流す生徒に、銃剣道禁止、国史、修身、地理の授業中止の知らせが来ました。
翌年(昭和21年)春、中学校は5年制に戻ります。しかし、本館屋上から見える大阪の町は一面の焼け野原。生徒は、家は罹災してなく、通学する市電は乏しく、登校どころではありませんでした。
昭和22(1947)年4月、6・3・3制の新たな学制がスタートしました。この年から生徒の自由研究が奨励されました。旧制中学としての都工時代は今年度限り、来春から新制高等学校になるということで、先輩方は戦災の失意の底から雄々しく立ち上がって、新しい希望に燃えて一歩一歩復興への努力を続けていきました。
なお、この年に今も年二回発行している「都工新聞」が創刊されました。残されている創刊号の写真は古くて読み取りにくいですが、英語の文章も掲載されています。すでにこの頃から本校は国際的な視野を有していたのでしょう。それから77年が経過した現代を生きる生徒の皆さんは、もっともっと国際的な視野をもって日々の勉学に励んでくださいね。(その9に続く)
都工新聞創刊号 昭和22年4月12日
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